11月の足立智美とその他のひとびと |
足立 智美 |
2004年9月にドイツに居を移してから主に制作の日が続いたが、11月はたまたま6本の公演が集中した。ヴィデオ作品の上映、非公開のパフォーマンスも含めると8本である。基本的にはソロ演奏なのだが、同じコンサートの枠内でさまざまなパフォーマーに出会うことが出来た。そのほとんどが日本では知られていないだろうから簡単にレポートする。
その前に私自身のこの時期のパフォーマンスについて説明しておこう。ヴォイスとMax/MSPを走らせたpowerbook(MIDIコントローラーがつながれる)、スプリングやねじ、ピアノ線を組み合わせた自作楽器のトモリングがメインの道具で、Max/MSPのパッチの組み合わせで緩くコンポーズされた曲を演奏する。ドイツで新しく制作したものとして、赤外線距離センサーを10個縫いつけたシャツを着て、声を身振りで変調するという作品がある。それに加えて小型のヴィデオカメラをトモリングに装着しスクリーンに投影し、演奏と楽器の視覚的要素の増幅を試みる作品もヴィデオプロジェクターのあるところでは上演した。また私自身の作品ではなく新國誠一の作品も時に上演。彼の《膿になった海》、《雨》が大変な関心を呼んでいたことは特記しておきたい。
さて最初は11月2日のケルンのgalerie rachel haferkampでの《small sounds and experimental intermedia concert》。企画はgalerie rachel haferkampとFreies Rheinland e.V.。この画廊はヨーロッパでもサウンド・アートに特化した画廊としてよく知られたところであり、またコンサート、ワークショップも頻繁におこなわれている。この日の出演は刀根康尚、YUI Miki、足立智美の3人。タイトルからは分からないが海外在住の日本人アーティスト、ということになっている。最初はデュッセルドルフ在住のYUI Miki。倍音の少ない電子音を録音したCDを4台のプレーヤーで再生ミックスし、4チャンネルに分配。小さいは小さい音だが必ずしも耳をそばだてるほど小さくはない。繊細でゆっくり流れていく音楽。次に私。持ち時間が長かったので新國誠一から始め、いくつかのインプロヴィゼーション、カメラを用いたトモリング、最後は赤外線シャツ。この日最後は刀根康尚の"Wounded Mon'yo"。この作品のコンセプトを述べるとそれだけで大変な字数になってしまうのでここではやめるが、テープを貼り付けたCDをプレーヤーを叩きながら演奏する。CDのスキップ音はときにビートだが、それがフィジカルな感覚とほとんど同期しないので、異様な感覚を与える。その背後にあるコンセプトを考えるとやはり恐ろしいまでの迫力。2台あったうちの1台のプレーヤーが不調で《草体万葉》の方が聴けなかったのが残念。
次は11月5日のケルン日本文化会館。美術家、豊嶋康子とAn Seebachのコラボレーション展《she_story_loop》のオープニング・パフォーマンス。この日は他の日と異なり、展覧会のオープニングでしかも展示とのコラボレーションを目的としたパフォーマンス。日本人の豊嶋とドイツ人のSeebachは最初に連歌のように英語の奇妙なフィクションをe-mailのやりとりで書き上げ、そのストーリーをもとにさまざまな展示物を作り上げた。お互いの母語ではない言語でのメイルのやりとりは誤解を含み、それが展示全体の重要なコンセプトとなっている。私はそのストーリーの抜粋をつくり、豊嶋による日本語訳をSeebachが、Seebachによるドイツ語訳を豊嶋が朗読するところから始め(両者ともに日本語、ドイツ語は話せない)、英語のテキストを基にした私自身のヴォーカリゼーションを加える。その音の変調で仰向けになったスピーカーを鳴らし、展覧会で使用した小麦粉、豆などを豊嶋がその上に置いていく。最後は展覧作品の一部を作った11才の少年Lovesが階段の下から歌いながら現れる。彼が歌ったのは平安歌謡の《水猿曲》。録音を渡し、自分で楽譜を作ってもらった。歌詞も聴き取りだがもちろんドイツ人の少年には正確に聴き取ることは不可能だ。その意図的でない変換プロセスが展覧会全体のコンセプトと結びついている。また「猿」はもとになったストーリーの重要な登場人物で、展覧会の最初のセクションも猿の人形で始まる。
1日おいて11月7日のフランクフルト(アム・マイン)のBürgertreff Frankfurt-Niederradにて"computer music III"。フランクフルト在住のPeter Wießenthaner主宰のNPO、SKOPによるコンピュータ音楽フェスティバル。公共体育館にPAを持ち込んでのコンサート。日本ではこのような状況はままあることだが、ドイツでは公共の施設をレンタルしてコンサートをやる事自体きわめて珍しい。前日はThomas Ankersmit, Peter Behrendsen, Nikolaus Heyduckの3者によるコンサートだったが聴いていない。
7日はケルン在住のトロンボーン奏者Paul Hubweberとウィズバーデン在住のエレクトロニクス奏者Uli Böttcherのデュオ"Schnack"から。Hubweberはフリーからファンク、ジャズまでこなしケルンのインプロ・シーンの中核のひとり。特殊奏法を交えながらダイナミクスが大きく散発的なトロンボーンの音をBöttcherが2台のKaoss Padでリアルタイム処理し、時に自作のMIDIコントローラーで制御するサンプラーで珍妙な音を加えていく。主催者でもあるWießenthanerのパフォーマンスはコンピュータでフルートのサンプルを鳴らしながら生でもフルートの音をかぶせていく。ほとんど2つか3つの音程しか用いておらず、音密度の低いフィル・ニブロックという印象もないわけではないが、時折極端に大きな音で金属打撃音がコンピュータから鳴る。その落差があまりに甚だしく、全体を捉えどころないものにしている。最後は音のスライドができる自作のフルートを持って(これもほとんど2-3度圏内の音程)客席を巡る。Wießenthanerはラッヘンマンに学び、ノーノと仕事したこともある、それだけ聞くと現代音楽の王道を行きそうなキャリアの持ち主だが、パフォーマンスの奇妙さは群を抜いている。同時に非常にカラフルな反復絵画の画家としてもキャリアがある。最後の私はコンピュータ自体の音(コンピュータにコンタクト・マイクをつける)をコンピュータで変調するというコンサートタイトルに結びついた自己言及的なパフォーマンスから始め、いくつかのインプロヴィゼーション、最後は赤外線シャツ。
12日はエッセンのMaschinenhaus Essenにて"Performance Art in NRW 2004"に参加。NRWというのはノルトライン・ウェストファーレン州のこと。出演はスウェーデンからの2人と日本からの2人。オーガナイザーはBoris Nieslony、ケルン在住のパフォーマンス・アーティストでドイツだけでなく世界中のパフォーマンス・アーティストから尊敬されている人物。今年(2005年)来日予定とのこと。
最初のSU-ENは日本で白桃房に学んだ"Butoh"ダンサー。彼女のカンパニーは日本以外で結成された初めての舞踏カンパニーといわれている。ウジや内臓だらけの映像を背景にダンスというよりちょっとしたアクションを繰り返す。体の使い方は日本でもよく見かける西洋人のやる"Butoh"だが(なにしろ体型が全然違う、しかも腰回りが、なんだから仕方がない)、それはともかくおどろおどろしさの強調が鼻についた。とはいえこんなドライなおどろおどろしさは日本の舞踏にはないのだから、それはそれで面白いのだが。次のHans Sternuddはスキンヘッズの腰巻きひとつででてきて、頭から原色のペンキをかぶり、紙を貼った壁に激突する。いわゆるアクション・アートだが、背景に重厚な反復ノイズが流れており、また終わってからメランコリックな音楽が流れるなど、演出の要素がきわめて強く少々シンボリックな意味合いを感じさせる。ダンスとパフォーマンスの双方から距離を置いた体の使い方やドラマティックな構成の仕方は丹野賢一に似ている。
日本の山岡佐紀子は床に置いた鏡を塩で埋める、水をバケツと段ボールの間を往復させるといった反復を、その行為が不可能になるまで繰り返す。行為のミニマルな反復なのだが行為自体が少々過剰でその微妙なバランスが面白い。私はこの日はエレクトロニクスは持ち込まず、日本の音響詩に焦点をあて新國誠一と芳賀徹の作品、自作を朗読。自作は最初に"Guten Abend, Dankefuer iher kommen"(こんばんは、ご来場ありがとうございます)というセンテンスを次第に解体/反復していく《Guten Abend》。および最後に新作の《Danke Zehn》。タイトルだけ聞けばドイツ人は"Danke schön"の間違いだと思うが、内容は"Danke"の語を10回繰り返す(Zehnは10の意)。その1回毎にエレクトロニクスを使わないさまざまなシグナル・プロセッシングの技法(水に顔を突っ込む、ヘリウムガスを吸う、バナナを頬張る、糸電話を使う、など)を用いて言葉を変調する、という内容。
17日は再びフランクフルトにて若いエレクトロニクス・ミュージシャンTobias Schmitt のオーガナイズする"Forum fuer Experimentalelektronik"。会場はTanzhaus Westという中央駅裏のダンス・クラブ。地元の放送局とつながりが深いらしく、開演前にラジオで生でインタヴューを受けた。対バンがBakeryとKhaputbeat。いずれもフランクフルトに拠点を置くフロア向けのインプロヴィゼーション・グループ。Bakeryはアメリカ人、ドイツ人の混成でビートトラックを流す上にサーキット・ベンディングしたキーボードによるノイズ、鍵盤ハーモニカによるメロディーがかぶさる。カットアップされたヴィデオが流れるのはこの種の音楽の常道か。Khaputbeatはクロアチア人、ドイツ人の混成グループ。ビートは見え隠れする程度で主にサンプラーによる多層的な反復とアナログ・シンセのノイズによるインプロヴィゼーション、こちらもヴィデオを伴う。随分と騒がしい会場で正直いって私自身は最初はひどくやりにくかったのだが、次第に集中してくれて最後の赤外線シャツの時は終わる前からずっと拍手が続くというあまり経験したことのない事態。しかも私の演奏で踊る客が現れたのにはちょっと驚いた。
しばらくおいて27日はデュッセルドルフの美術館、Museum Kunst Palast にて《lumen unddezibel》(ルクスとデシベル)。2日と同じFreies Rheinland e.V.のキュレーションで美術館の主催。私もこのプログラムを見たときは驚いたがドイツの人々もだいぶ驚いたらしい。ちょっと考えられないような組み合わせである。Tom Johnson, Iris Sputh und Michael Vorfeld, Jens Brand, 足立智美, Francisco Lopezというラインナップ。サウンド・アートという言葉で括られるであろう人々を端から端までまばらに集めたという感がある(ちなみに私自身はサウンド・アートというカテゴリーに括られるのを好まないが、私のような「音楽」はドイツではサウンド・アート"Klangkunst"と呼ぶのが普通である)。閉館期間の美術館の一部屋を自由に使ってよい――しかもその「一部屋」というのがとんでもない大きさ――という企画。
最初のTom Johnsonは《Galileo》を自ら上演。ガリレオの振子の原理を応用した作品で、天井から単純な比率の長さのひもで吊るした鉄棒(これも各々長さが違うのでピッチが異なる)を振子としてさまざまなバチで叩く。要するにひもの長さと反復周期が対応しているので手前に来たときに叩けば規則的なメロディーがうまれるわけだ。その原理をわざわざパフォーマンスの前に解説しカウントしながら演奏する。全部で5つの振子があり、そのすべての組み合わせが終了したときにパフォーマンスも終了する。きわめて明晰でまるで科学の実験をみているようだが、振子の原理をいくら知っていたとしても、実際にそこからメロディーが生まれるのをみるのは感動的な体験である。彼とはメイルのやりとりを随分してきたがこの機会に会えて本当に幸運だった。次はベルリン在住のダンサーIris Sputhと打楽器奏者、インスタレーション作家のMichael Vorfeldのデュオ。何度目かの共演らしいがどうも私とダンサーの山田うんの"VACA"でドイツをツアーしたときの企画ついででうまれたデュオらしい。Vorfeldはライトやスネアドラムなど各種打楽器を空間に敷き詰めるように配置してその中でSputhが踊る。壁の隅を利用してダンサーの影が歪むようにライトを配置したり、エレクトロニクスによってライト→音→ライトの変換をするなどインスタレーションとしては面白いし、まっとうなバレエを基本にした即興ダンスと弱音で音数の多いパーカッション演奏との噛み合わせも悪くないが、まばらにネタを配置する時間構成が随分気になった。
次は長いつきあいの友人であるJens Brandの《Motoren und Styropor》。古くからやっている作品だがあまりそういうことは気にしないらしい。発泡スチロールを組み合わせ数メートル四方の宇宙船のような彫刻をつくりあげ天井から吊るし、そこにとりつけた8台のモーターの振動音を聞かせるインスタレーション。モーターの回転数はコンピュータ(powerbook 140! 要するにこの作品を初演したときのコンピュータがそのまま使われている)で制御されている。彫刻といってもラフなつくりでそれが宙に浮かんでいる姿はかなり間抜け。それが震えだしドローンを発するのだからたまらない。少々シュールレアリスティックな発想から説得力のある響きを生み出す。観客は自由に動き回れるのだが、そのうち彫刻が壊れ始め観客の頭に発泡スチロールが落っこちたりする。次の私のパフォーマンスは時間が短いこともあって、トモリング+ヴィデオと赤外線シャツの2曲。ただヴィデオはトモリングの向こう側にモニターを置き、自作のヴィデオ・シンセサイザーでヴィデオ・フィードバックをコントロールする。赤外線シャツが声に伴う視覚的要素で音を変調するというアイデアなのに対して、こちらは発音に伴う視覚的要素で視覚自体を変調するというアイデア。時には変調する動作自体が音をうむ。両方ともサウンド/ヴィジュアルのインターメディアなのだが最後のアウトプットの力点の置かれ方が逆になっている。
ラストのパフォーマンスはFrancisco Lopez。自分の機材の片付けをせねばならず、最初から聴くことはできなかったが、真っ暗な巨大なホールの中でミキシング・コンソールを中心に外に向かった円形に観客を座らせ(目隠しが用意されておりそれを着用することが奨励される)取り囲む8チャンネルのスピーカーからの音を浴びせる。川のせせらぎのような音と電子音が主体で、パフォーマンスにおける儀式的な雰囲気さえなければ、音響的な体験としては南フランスで盛んなマルチ・スピーカー・オーケストラの公演に近い。ただいつもの如くというべきか音圧は終盤の数分で急激にあがり、最後の数秒のとてつもないクレッシェンドは見事というしかない。この巨大な空間は音特性に偏りもなく、彼の音楽を聴くにはすぐれた環境だったといえるだろう。
せっかくだから、最後にドイツのコンサート・システムのこと、観客のことを書いておこう。私が公演する場所はいわゆるコンサート・ホールではないし、公立のオーガニゼーションに関係することもあまりない。しかし多くが登録された非営利団体(日本でいうNPO、ドイツではe.V.という)で市の援助を受けている場合がほとんどである。そして実験的な音楽/アートを扱うe.V.は沢山存在し、きちんとお金がおりている。これはドイツではこの地域(ノルトライン・ウェストファーレン州を中心とした西側)に限られた事情でもあるのだが、結果的にアーティストに安定した報酬を保証し、観客には安い入場料を可能にしている。ちなみにこれらのコンサートの場合、報酬は200-600ユーロ程度、交通費は含まれたり含まれなかったり、宿泊はホテルのこともあるがプライヴェート・スペースに泊まることが多い。ドイツの部屋というのはたいてい無闇に大きいし一人暮らしの人たちでも2-3部屋持っているのが普通だから、プライヴェート・アコモデーションで不便を感じることはほとんどない。キッチンがあるだけホテルより便利という話もある(ドイツでは終演後に外食することはほとんど不可能!)。また鍵を渡されただけでその家の人と顔も会わさなかった、などという経験もある。
入場料は無料から高くて7ユーロくらい。実際どこのオーガナイザーも観客の数は気にしても実入りを気にすることはまずない。どっちにしても入場料は大した収益にはならないからだ。そこは善し悪しでやはり日本と比べれば宣伝もしないし、実際不思議なくらい観客が少ないこともある。上記のコンサートでいえば観客は15人くらいから最大80人くらいであった。もちろん都市の規模(この地域で一番大きなケルンでようやく100万人都市)を考えるととても東京とは比較できない。また集客が少ないことによって公的な援助がもらえなくなる、ということもあまりないらしい。ただ日本と大きく違うのは年齢層が非常に広いことと、観客がジャンルに固定されないことである。顔がくしゃくしゃになったおばあちゃんが終わってから私の手を握りしめにくるのは少々感動的な経験である。そして長い長い拍手をする。と思えば頑として拍手しない人がいたり。アーティストのやっていることをとりあえず真剣に見てみる、そして個々人が判断を下す、という態度はすべての年齢層にわたって一貫しているように感じた。個人というものがどこで成立しているかはここでは論じないが、ともかく卵が先か鶏が先かは分からないにしろアートを育てるということではそのような観客の存在は公共支援以上の糧であることは間違いないのだ。